週末にはまた新しい話が始まるのでその前にと思い、よく練った考えではないものの早めにブログを書いてみることにする。
第5話「二百十日の二百十段」
圭と陸が、学校の屋上を目指して階段を登っていく中での会話劇で、
アドリブを含めた 男子高校生ならではの話の内容や、ワンカット撮影の行方を見守っていくことへの、ワクワク感があった。
そしてよく聞いているとちょっと世の中に物申したい圭と、それを優しく単純に受け取る陸。2人の言葉に少し考えさせられて、またくだらない会話に戻っていくのが微笑ましかった。
ただ、今までの4つの話と違って事件性が全くなく、過ちを犯したりもしていなければ非現実的な現象が起こったりもしない第5話。
誤解を恐れずに言うと、見る人にとって大きな衝撃や分かりやすい教訓がなく、4話までを見てきた流れでこの5話に踏み切るのはある意味挑戦のように感じた。
しかしこれはドラマ化の仕方が云々ではなく、原作もそんな調子で、阿蘇に旅行に行き悪天候の中ただ山登りをして途中で降りてくるだけ。
夏目漱石が伝えたかったこと、そして文豪少年が二百十日を10話のうちのひとつに選んだ理由は、なんだったのだろうか。
私は、階段を登る中で2人が話した内容のどれが1番肝なのかずっと考えていて。
人間の不平等さ、恋愛、嫉妬、進学、家の豆腐屋のこと、大人になるってこと、ルール違反をする人たちへの不満、いつか必ず屋上に登るってこと、、、
いろいろなことを話していたのは分かるけど、どれが大切なのか選びきれなかった。強いていうなら、全部重大なのだ。
どれも、生きていればだいたい経験するであろうことで。客観的に優先順位をつけることはできないし、それらはひとつひとつ順番に起こるわけではない。数々の重大なことが次々に襲いかかってくる。そして悩んだり葛藤したりする。それって、彼らの話していたことって、人生そのものなのではないか。雑談のように見えて(というか本人たちは雑談のつもりなのだろうけど)、大切なことだったんだなと気付かされる。
しかし、「親友同士の会話が弾む、楽しくもほろ苦い青春物語。」とまとめられた、公式がTwitterに掲載したドラマのあらすじにしても、ドラマの描き方にしても、(原作の碌(陸)は、もっと圭に文句を言うのだけど、ドラマの陸はどちらかというと素直で、いざという時以外にも圭に優しく、友情が分かりやすく描かれていたように感じた。)
友情がメインのように思えたんだけど、「えっ?これのメインって友情か、、?」と、どうも私にはしっくりこなくて。私の読解力がないだけかもしれないがどうしても違和感が残った。
そこでヒントをくれるのがBook Cafeのマスターだ。
小説の再現やりっぱなしではなく、復習タイムがあり、想像の世界から引き戻されて現実に還元することができる時間が確保されているのはこのドラマの素晴らしいところのひとつだと思う。マスターしか勝たん。
そんなマスターはこう言っていた。
「人生をやってると、2人の前にはそれぞれの道が現れてくる。進学、就職、引越し、結婚、、、いつのまにか心の距離ができてもう会えなくなるかもしれない。
だから今共に時間を過ごして何かを成し遂げようとしている、それがいい思い出となって人生の大きな糧になる」
この言葉を、イッセー尾形担かというほど何度も再生して、反復してみて、やっと自分の中に落とし込めた気がする。
ひとつ分かったのは、"友人との思い出が人生の糧になる"というのを私は既に身を持って知っていたということだ。
私はもう、高校2年生(圭と陸の年齢)が何年前なのか指折り数えてみないと分からないくらいの、20代前半で。誰に教わるともなく自然と、友達と共有した楽しかったことや苦しかったことを糧にする瞬間があったのだと思う。
私にとっては良くも悪くも、もう当たり前になっていたことで、わざわざ小説やドラマの題材にするほどのことだ!と認識できなかったんだなと後から気付く。
きっと、カフェに訪れた彼らと同世代の人たちに、「将来糧になるから、今ある友達とのそんな時間を大切にしなさい」というメッセージを送りたいのがメインなのだろうが、
私のような年齢の人にとってみると「糧になるような同じ思い出を持つ友達がいることって素晴らしいんだよ」と改めて教わり、実感するという受け取り方もできるのではないだろうか。
そして、ちょっとした旅行や放課後のお喋りといったような、誰でも味わったことのあるような出来事は、
実は、敢えて文字や映像にして丁寧に描くほどのかけがえのないものだということなのかなと感じた。
あの有名な、あまり文学に詳しくない私でも流石に知っているような、お札にもなっていた、あの文豪の夏目漱石が、"日常"や"現実"や"人生"にフォーカスして小説を書いたのだと考えると、
なにも成し遂げていないと弱気になってしまうような自分の日々の生活も、実は小説にできるほど素敵なものなのかもしれないと思えてくる。
そして、そんな自分の他愛もない生活という物語の中に登場してくれた友人や思い出たちに、久々に想いを巡らせることにもなった。
結果的に二百十日を通じて、自分の半生を振り返り、案外悪くないなと感じさせられたのだった。
このブログの内容が、作者たちの意図と合っているのかは分からないし、そもそもわざわざこんな長文を書くことで頭を整理しなくたってみんなは汲み取れているのかもしれないし、小説だからきっとどこまで行っても「正解」「不正解」はないのたろうけど。
こんなものは自己満で、私の中では二百十日の二百十段を味わい尽くしたのではないかなと満足している。
これからも、時折圭と陸を見て元気をもらいながら、私も階段を登ったり時には降りたりして、威勢よく呑気に人生を送っていこうと思う。
おわり